ふと、子供の頃のことを思い出した。
小学生の頃のこと。
その日は、朝礼があったんだ。
その朝礼の最後の方で先生が、全校生徒を前に注意していた。
休み時間に校庭で遊んだ道具はちゃんと後片付けしようよ!
校庭に遊び散らかしたものが次の体育の時間の時に邪魔になるからと。
でもって…その話を最後に解散になった。
みんながぞろぞろと教室に戻っていく。
僕はS君とぐだぐだしゃべりながら戻ろうとしていた。
すると教室に向かう一団から抜け出た一人が小走りにある方向へ向かっていく。その彼はZ君だった。
Z君は校庭に放置されていた3連タイヤ(古タイヤを3連にした樽乗りみたいなことをする遊び道具)に一目散に向かっていき、そのタイヤに飛び乗って、収納庫に向かいだした。
すると…
僕の隣から怒号が響いた…
S君がZ君に罵声を浴びせている。
「テメェ!善人ぶってんじゃねぇ!ムカツクッ!」
「おめぇのそういう目立とう精神が気にいらねぇんだよ!!」
「テメェはいいんだよ!バカ!」ってね。
「あれあれ、そこまで言わなくても…」と思いつつZ君を気の毒に思ったものだ。そして、隣のS君の大層な怒りようにビビッタけどね。
という、僕の人生の中のある出来事の一こまだ。
S君にはZ君の取った行動が「偽善」に見えたわけだ。
それが偽善であったか?真の善意であったかはZ君に確認していないから解らないが。
みんな自分のフィルターを通して世の中を見ているんだよね。
Z君の行動もある人からすれば、先生の忠告を守ってすぐに実行した彼に称賛の目を向けるかも知れない。
でも、同じ彼の行動をみて罵声を浴びせる人もいるわけだ。
みな人ぞれぞれ独自の経験をしているのだ。
その経験を決めるのはいつも自分自身なのだ。
自分自身の選択決定の結果で僕らは一喜一憂したり…
そういうことなのだ。
この世に起きる出来事は誰に対しても中立なものであって。
そこに意味づけをして経験しているに過ぎない。
考えてみれば、そういう見方しかできないS君はある意味可哀想な人なのかも知れない。
Z君のその行動を観たことで少なくとも心が騒がしくなった。
偽善の匂いしか感じられなくなって…
そして怒りや憎しみを経験しているわけだし。
心穏やかでいられないという経験を作ったことになる。
それぞれがする経験というものは相対的なものなのだ。