スピリチュアルな世界の集まりなんかに行くと。
その参加者からまず必ず聞こえてくるのはこんな文言だ。
「感謝します。」
例えば…
醜い振る舞いをする人を見た。その行為に憤慨するものの…ふと考えてみれば。この現実は自分に何かを暗示して見せているのだと。
反面教師で「ああいうことをしてはいけないんだな」と悟った。
気づかせてくれて感謝しています。などといったもの。
まぁ感謝とは行かないまでも、このような経験は僕にもある。
だから僕としてはこのような話を聞いても特に違和感はないのだが。
最近一週間で起きたことでみんなに伝えたいことという話題で順々に話していく機会があった。
ほとんどの人が、自分の体験から導いて、軒並み「感謝しました」という言葉で締めくくっている…
みんなが感謝しているのだ。
心の中でどことなく不自然さをかんじていたものの、特に深く違和感を覚えるものではなかった。
でも、ある人は違った。
「聞いていれば何でもかんでも感謝…感謝…って!なにが感謝なんだよ!正直なところ馬鹿じゃねぇ?って思うんだ。」
「本当に感謝しているのだとすれば、なんでそんなに感謝できるのか知りたいね。」と。
実に正直でストレートな問いだと思った。
人はどこかで自分を他人にあわせて、つまり思いを共有させるのが良しとするようなところがあるのではないかと思う。
それで一体感を感じたり?
本気で、みんなと同じ思いならばそれはそれでいいと思うのだが。
自分の本意でなく迎合してしまって、無理矢理自分を納得させているということも少なくはないと思う。
人は心の中のどこかで仲間はずれでいたくないというある種の集団所属欲のような欲求があるのだ。
言い換えれば、異端であってはならない。
その結果、人に迎合してしまうという選択をしかねない。
そんな選択をした人に、かの言葉は強烈に響いたことだったろう。
「なんでそんなに感謝できるのか知りたいね。」
みんなと違う思いを持ったっていいのだ。
言い方はともかく、勇気ある発言だと思った。
正直さというものに、ある力のようなものを感じた。
ところで、どうしたら感謝できるのだろう?
僕が思うに、人それぞれがする意味づけの違いではないかと思うのだ。
不幸中の幸いという言葉があるが、例えば怪我をしても「あぁ、大した怪我でなくて良かったな。」と。
これはある意味で感謝に値するものだと思うのだが…
意識を「不満」にターゲットを合わせると、不満な思いが増強される。
同じ場面でも…
「あー俺はなんてついていないんだ!こんな怪我をするなんて!」
こうして自分の運命を恨むことだってできる。
ものの見方って「慣れ」とか「慣習」が大きく影響すると思うよ。
だから何でもかんでも感謝できる人というのは「感謝」に意識をフォーカスすることに慣れているのかも知れないね。
そこで…
自分の身に起こる出来事はみな奇跡的な事なのだととりあえず考えてみたら?まさしく「在り難い」こととして。
その視点でその出来事を見つめたならば、今までとは違った観点で観ることができるのではないだろうか?